墨運堂 百選墨

 長年に亘り、墨の体質と老化過程とそれに附随する墨色の研究をして参りました。処が一般に墨色は黒いものとばかり考えて頂いておりますが、その黒にも実に沢山な黒い色があり、体質的に、個性的に、又色彩的に色々と区分出来得る事が判りました。体質的には、澄んだものから濁ったもの迄、明るい感じのものから暗い感じのもの迄、強い感じのものから弱い感じのもの迄、艶っぽい感じのものから枯淡なもの迄、荒々しい感じのものから繊細な感じのもの迄、派手な光沢のものから地味な光沢のもの迄、光の反射性のものから吸収性のものまで等々。以上の体質を組合わせてゆきますと、数多く体質個性を創り出せます。例えば、澄んだ中に少しずつ濁りを置きかえてゆきますと最後に完全に濁った墨が出来ますが、この過程で、簡単に言えば、澄と濁りの組合せ比率に依って、色々な体質個性が出来ます。色彩的には、茶の濃い黒から茶の薄い黒迄、赤紫色の濃い黒から青色の黒迄、薄茶と青色の黒の合わせた色の最終点鼠色の黒迄種々あります。

 ここで墨色を表現するのに、絵具の色彩名称を使って、色の説明しておりますが、これはあく迄も墨色の中の「茶」「青」「赤紫」「渋茶」らしい感じのする墨色であって、絵具で言う色彩ではありません。

 この体質と色彩を組合せますと、墨色は実に限りなく創り出す事が出来ます。しかし平凡な体質や色彩では墨に出来ても作品向きには使用価値が乏しく、唯お習字の練習用程度で、個性のあるものと言う事になりますと自ら数が限られて参ります。

 これをこのまま唯店の一般向代表製品造りだけで埋もれさせ私の道楽で終らせてしまっては、常に私が言っている「墨造りは墨の体質造りと色彩の兼ね合わせである」との主張が、言葉だけの空論になりかねないと言う事になりますので、今日迄三拾年余り試作して参りました中から、良いと思うものを百種類選び、百選黒として発表を思い立ち、製造にかかりました次第です。

 この様にして意識的に体質色彩を組み合せて造り出したものが、新墨から古墨に老化してゆく段階で、その体質色彩が段々と顕著に現われて独自性が出て参ります。

 先ず製造後一年以内の新墨では、水分が八分通り抜け切るのに三年程かかります。その後、四年か五年目頃から墨質も乾燥し、墨色がほゞ固定して来ます。この頃から、自己の持った体質が顕著に現われて参り、色彩に厚みが加わって来ます。

 新墨の製造後一年程度の間は、一寸変わっているなと言う程度で、一般の墨とは余り変りばえも致しません。私は生れたすぐの子供達といっしょだなあと常々思っております。丁度子供が二、三才になり、自分の意志で行動する様になって、段々子供午らの性質特長が表れて来るのと同じ事が言えます。

 百選墨を仕上げるのに困っている事があります。それは墨型の作製の問題と、原材料と人の問題です。

 古墨等で、型柄が同じでも墨質の変っているもの、或いは型柄が違っていても墨質の同じものが沢山ありますが、私は百選墨については、一型柄(銘柄)一墨質とし、同じ型で二度と他の墨質に使用しない覚悟です。

 従って、非常に沢山の型を作らねばなりません。一型柄一種類に、墨型一組20枚余りを必要とします。一組の型を作りますのに、一ヶ月から一ヶ月半、図柄の複雑なものでは二ヶ月近くかかるものもあります。型師の手彫りでありますので時間がかかります。店の一般代表製品の墨型の修理や新型の作製もありますので、百選墨の型作りは年に三組か四組程度しか今のところ出来ません。これには閉口しております。

 型師は現在奈良に(即ち全国に)三名です。その内の一名を二○年余りかかって育てて来ましたが、後に続く若い者がありません。これでは百選墨を仕上げるのに私の命がありません。なんとかせねばと、日夜研究致しております。

 次に困る事は、原材料と、原材料を造って呉れる職人です。原材料は全部自然原料です。これも年々工業開発で変ってゆきますし、又無くなって仕舞うものもあります。同時に原材料を造って呉れる職人達も皆老境に近い人達です。早くしなければと心ばかり急いでおります。

 右の様な有様で、今後何年かかるかも知れませんが、私が仕事の出来得る限り、百選墨の製造を指導してゆく覚悟をしております。

 尚私の主観で、試作品のデーターの中から、個性、色彩美、品位のあるものを百種類選び出し、今後逐次製造にかけるのですが、中には御好みに依り、色彩体質に嫌な不向きのものもあるかとも存じますので、何卒その節は、御見捨て置き下され度く御願い申し上げます。

 百選墨を造り出しましたいきさつは、以上の様な事でありますので、何卒宜しく御指導御声援の程、偏に御願い申し上げます。

昭和四十七年五月十五日
株式会社墨運堂社長松井茂雄

百選墨No.1からNo.50
※参考資料として裏絵に彩色しています。頒布品には裏絵彩色はしていません。


百選墨No.51からNo.100
※参考資料として裏絵に彩色しています。頒布品には裏絵彩色はしていません。
参考資料「墨運堂墨譜 百選墨 上巻・下巻」